ゾシマ長老の言葉一考~ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』より

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 さて、ゾシマ長老が修道僧に対して一般の世の中の人々について語るシーンがあります。そこから抜粋。(『カラマーゾフの兄弟(中)』新潮文庫 原卓也訳より)
 〈彼ら(一般の世の人々)には科学があるが、科学の中にあるのは人間の五感に隷属するものだけなのだ。人間の存在の高尚な反面である精神の世界はまったく斥けられ、一種の勝利感や憎しみさえこめて追い払われているではないか。世界は自由を宣言し、最近は特にそれがいちじるしいが、彼らのその自由とやらのうちにわれわれが見いだすものは何か。ただ、隷属と自殺だけではないか!なぜなら俗世は言う。『君らはさまざまな欲求を持っているのだから、それを充たすがよい。なぜなら君らも、高貴な裕福な人たちと同等の権利を持っているからだ。欲求を充たすことを恐れるな、むしろそれを増大させるのがよい』―これが俗世の現代の教えである。この中に彼らは自由を見いだしているのだが、欲求増大のこんな権利から、どんな結果が生ずるだろうか?富める者にあっては孤独と精神的自殺、貧しい者には妬みと殺人にほかならない。〉
 この調子で俗世の批判が続けられ、次いで修道僧がそれをどう助けられるかが語られるのですが、この批判を我々は痛切に受け止めなければならないと思います。
 解説書なども何も読んでいない段階で、何一つわからないに過ぎないですが、私にはドストエフスキーがこの作品の中で自己の主張をゾシマ長老に代弁させている箇所がいくつもあるように思います。つまり、この箇所はドストエフスキーの主張だと私は思っているわけです。
 ドストエフスキーは、科学を信じて進む未来には、隷属と自殺しか残らないというのです。この点で、トルストイも人生論の中で科学・学問は真の幸福をもたらすものではない、と批判したことも参照しておいて良いかもしれません。ドストエフスキーとトルストイとは立場さえ違え、科学や学問がもたらすものは、悪であることを見抜いていたのです。
 20世紀に、科学の発達の極みともいえる核兵器が開発され、実際にそれが使用されたのも、その悪の一つだと言えましょう。人類は、自らの手で自らの命のすべてを消し去ることができる技術を手にしてしまったのです。
 ただし、現代世界において利便性を向上させるために様々な科学・学問が利用されています。これらをすべて否定してもとの生活に戻ることは出来ないのであります。言ってしまえば、我々は利便性のために科学・学問の発展を止めることなど出来やしません。
 ではどうすればよいのか。科学・学問の発展がもたらす(生の)隷属と自殺に対抗する価値観・哲学を個人個人が持つしかありません。それは、人によっては何らかの宗教でありましょうし、実存主義の考えであることもあるでしょう。科学万能主義、ニーチェの言葉を借りるなら論理ソクラテス主義といったものと共存ができる考え方をそれぞれが持たなければならないのです。
 科学・学問は確かに必要です。ですが、人間の本質を求めてようとすればするほど、今の科学はあまりにも細分化され、その本質の問題から遠ざかっているのではないか、とさえ思ってしまいます。この科学の力だけを信じるのではなく、それに対抗しうる価値観を個々人が身につけることが必要なのではないでしょうか。


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 以上は大分昔あるSNSの日記に書いたものですが、今引用文などを読み返してみて思ったことなどを少し書いてみましょう。
 「自由」とは何か?引用文には、この問いも含意されているように思います。カントにおいては、この問いは、いわば人間存在の究極の問い(の一つ)だと考えられています。
 人間は、当然、自然法則に従います。自然法則とは、ある原因からある結果へと移行するプロセスのことです。これには強制的な力として、地に生きる動物すべてが従わなければなりません。対して、人間は自由な存在です。自由だからこそ、自らの意志によって何事かを選択し、物事を決定します。さて、この二つの考え方の一方を究極的に推し進めるとどうなるでしょう。自然法則による因果律に従う、という考え方を進めていくと、人間存在といえども因果律の呪縛から逃れられない、人間の自由意志など存在しない、と考えるようになります。そうすると、二つの考え方は矛盾として我々の前に現れます。しかしカントは言います。これは仮象矛盾、つまり矛盾のように見えているだけなのだと。実際は、人間は自然界(感覚界)において、たしかに因果律などの自然法則に従っているが、英知界(精神界)において、自由を起点として作り出すことができるのだ、と言います。これがカントの第三アンチノミーとその解決法(『純粋理性批判』)なのですが、さらにカントは真に自由な行動とは責任ある、自律の伴った行動であると述べます(『実践理性批判』)。ここで詳しく述べることはしませんが、カントは無責任な、あるいは他律的な行動の一切を自由なものとはみなしませんでした。
 さて、今日の私たちから見れば、いささか観念論的に見える部分もあるカントの自由観ですが、私にはドストエフスキーの言いたいことと重なる部分も少なからずあるように感じました。科学の発達において、我々は自由になったと感じがちです。たしかに、遠方に行ったり、あるいは即時に遠方の人に情報を伝えることができる点などでは、利便性は向上しています。しかし、それだけでは自由の要件になんらならないとカントやドストエフスキーは考えているわけです。むしろ、精神的な自由とは、倫理に従った生き方をしなければ、成り立たないと考えられています。そのことが真実なのかはわかりません(むしろ、一時期世界で流行したフランスの構造主義などでは、自由といったものは言語を使うがゆえに、人間が陥る罠の一種のような考え方を提示したりしています)。しかし、多くの人が、ある行動をとり他人を傷つけたり、嫌な思いをさせたりしたときには、良心の呵責を感じたりすることがあることを鑑みれば、道徳的自由の説もあながち古典説として捨て去られるべきなのでしょうか。