ヴェーバーとフーコーの共通点とそこから考えるべきこと

NO IMAGE

ヴェーバーは、ある社会が脱呪術化などの合理化の過程が進行するにつれて、その社会における官僚制が発展している事実を指摘した。
ここでいう、官僚制とは、政治経済的な知識の専門人が権力を持ち、社会を管理、あるいは監視する制度のことを指す。そして、その管理や監視が個人の私的領域にまで拡張されるであろうことが予想されている。
フーコーは自身思想の源泉を明示することはほとんどない。もちろん、ヴェーバーに直接的な影響を受けたとは言いづらいだろうが、しかしおそらくこのヴェーバーのこの官僚制についての議論とフーコーの権力論の親近性を否定できる人は少ないだろう。
もちろん、19世紀後半において、既にニーチェの力論や社会論において、それがニーチェにとって肯定的か否定的かに問わず、権力者が力を持つということはどういうことなのかが議論されていた。ヴェーバーにしろ、フーコーにしろ、これらの議論の影響はおそらく大きく受けたことだろう。
さて、フーコーは知と権力のありかたについて、簡潔に言うと、次のように言った。
極度に専門化された知は、ある言説空間を生み出す。言説空間とは、政治経済学なるもの、社会学なるもの、精神医学なるもの、等様々な知的領域を指す。この言説空間は、時代とともに、その境界域を絶え間なく変動させ、様々なものを取り込んだりしてきた(もちろん、逆に、元々その言説空間内にあったものが言説空間外におかれることもある)。この言説空間は、様々な言説によって規定され、また言説も言説空間によって規定されるのだが、極度に知が専門化された時代においては、言説および言説空間は権力と容易に結びつく。
フーコーは様々な具体例を出す。例えば、それまで神憑りとされていた人が、精神医学の発達とともに、それは狂気とされ、危険視される。そしてそのような狂気を持つ人は監獄へ押し込められた。精神分析学により、その狂人は神経症を持つ病人となった。そして監獄に似た機構を持つ精神病院によって監視、規制される。
上記に挙げた例でいえば、異常な人は正常な人に戻すことができるとの前提のもと、ある種の教育/訓練を行うことで、正常な人にするということが目標に置かれる。この背後には、人権という概念などがある。人権、つまり人としての権利は、啓蒙主義あるいは自然法思想以来、西洋の重要なキー概念(ある種の言説)であるわけだが、この人権は正常的な人にしか適用されない。
この人権という言説は、まさしく権力主体が人々をコントロールするために、用いられてきたのだが、正常な人出ないと権力主体は様々な面で困ることになるから、矯正することを行ってきたのである。
そのように、権力と知(により作り出される言説空間)は密接につながっていて、フーコーもヴェーバーと同じく、その管理・規制しようとする力はますます強くなっていくことを警告している。
一つは共産主義的国家における情報の統制と監視の強さのおいて、個人の自由が侵害されてきた事実において、彼らの命題の正しさがわかる。ただし、今日においても、そのような規制が完全になくなったとはもちろん言えない。
GOOGLE等を代表とするアメリカ企業及びアメリカ合衆国政府による情報の監視や統制などがWikiLeaks等により、指摘されたりしたこともあったが、実際、個人の公的領域にかかわらず、私的領域においてまで、情報の監視は行き届いているのである。今日、私たちがそのようなものに対して、どのような考えを持ち、行動するかを決める必要がある。
もちろん、それが反人道的行為であり、反社会的行為でもあることを指摘するのは難しいながらもできるだろうが、先に挙げた共産主義的国家あるいは独裁国家(全体主義国家)の例においては、その反人道性を指摘すること自体が、反社会的とみなされたことにも着目する必要があるだろう。