哲学者重要人物物語・ソクラテス

哲学者重要人物物語・ソクラテス

近代思想、近代哲学について述べようとするとき、普通、ソクラテスの名前は出てこない。だが、キルケゴールの存在は、ソクラテス(とイエス・キリスト)なしには語りえない、というくらいだから触れておかねばなるまい。
日本では「私は自分が何も知らないことを知っている」といった無知の知という言葉で知られるソクラテスだが、彼の存在は古代アテナイ、いやギリシャ世界にどういう影響を及ぼしただろうか。ソクラテスが出る以前、自然哲学を説いたミレトス学派にしろ、イオニア学派にしろ、世界の構成要素は何か(世界は何から出来ているか)という問題が中心とされた。世界の存在について説明することが、人間の存在理由をも説明すると考えられていたのである。たとえば、ピュタゴラスは世界の構成要素はまさしく数に還元できると考えたし、デモクリトスはそれは物質の最少単位である原子であると言った。
さて、ソクラテスはそのような考え方を一変させてみせるのである。世界が何で出来ていて、今後どうなるかなどについて予測し知ることができても、それは人間の存在理由なども説明しないし、まして人間がどう生きるかという問題には何も影響しない。むしろ、知を愛するとは、人間の生き方のあるべき道を考え導き出すことであり、それは倫理に帰着するのである。簡単にいうと、ソクラテスはこう言い、それまで世界・自然の問題が中心を占めていた哲学を、人間とその倫理を第一とするものに、変えたのである。
だが、実際ソクラテスがそういった積極的発言を行ったのではない、とキルケゴールはその処女作『イロニーの概念について―絶えずソクラテスを顧みつつ』で語るのだ。ソクラテスとは、イロニーの概念そのものであり、ソクラテスはイロニーという生き方を通して、ギリシャ世界の考え方を変えるほど、否定性(言い換えれば一種の破壊性と言ってもいいかもしれないし、現代哲学でいう解体・脱構築(deconstruction)というものにも近いかもしれない)を示すことで、弟子たち(プラトン等)に積極的創造性を付与したのだ、というのである。
イロニーは無限の絶対的否定性として、主体性の最も軽く最もかすかな徴しである。
『イロニーの概念』(キルケゴール著,飯島宗享・福島保夫訳,白水社,1966)
イロニー、それは絶対的に否定をし続けることで、たしかにソクラテス自身の主体性(ここではオリジナリティ、あるいは創造性のようなもの)はほとんどないのだけれど、教育的には大きな意味を持っているのである。
たしかにさきほど言った無知の知の一例を見ても、そう言えるのかもしれない。つまり、様々な場所にいって様々な達人といわれるような人に対し、ソクラテスは次のように問うのである。「あなたの知っていることは何か。どういうことなのか。」だが、彼らの言うことは、いわば世界の一部の知識だけであって、いかなる意味でも良く生きるとか、そういったものに役立つものではなかったのだと。つまり、そういった知識をまず全否定して見せるのである。そして、そのイロニーの結論が、「あなたがたは確かに私よりあるものごとについてはしている、だが、私は何も知らないということを知っている」というのである。これは一種のニヒリズムである。そして、その否定性に創造性を見るのは、プラトン達がやってみせた技なのである。
簡潔にまとめると、ソクラテス以前と以後を見てみると、たしかに自然や世界を考察して満足していた哲学を、人間がより良く生きるのは何か、という転換をさせたのは、ソクラテスであったことは間違いない。が、それはソクラテスが直接行ったのではなく、彼は否定しきるという技術において、彼の弟子たちを教育したのであり、その結果がそうなったのだということができる。
そして、「コペンハーゲンのソクラテス」と後世呼ばれることになるキルケゴールは、『イロニーの概念』以降、ソクラテスについて必要以上に語ることはないけれども、常に意識には入れつつ彼の哲学的考察を行ったのは間違いない。