哲学者重要人物物語・イエスキリスト

哲学者重要人物物語・イエスキリスト

イエス・キリストとは、その伝道活動以来、さまざまな人がメシアとして、そして神そのものとして信仰の対象にしてきた人物であり、今日、(外典も含めた)福音書やローマ書等、つまり新約聖書やその外典を除いてその生き様を見る資料を残していない人物である。その評価は古今東西様々であり、私が単に書ききれる相手でもないと思うが、ここではヨーロッパ思想史上、神への信仰の重要性を説いた人物の一人としておこう。
4つの福音書からわかる、生前、イエス・キリストが説いた重要な教えの一例を挙げておこう。
まず一つは、「神の愛」(ルカ11:28,ヨハネ8:32等)である。これは、「神が私たち人間を愛する」と言った意味での、「神からの愛」という考え方であり、神に近づくことで、神に救われる、というものである。
2つ目は、「隣人愛」(マタイ5:43,22:29等)である。
「隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイによる福音書22:29,新共同訳聖書)
そして、「神の国(天の国)の実現は現世的なものではない」ということも説いた。
最後に挙げておくが、ユダヤ教的に律法を守ることではなく、神への信仰をもつことの重要性を説くのである。これは、人間から「神への愛」とも呼ばれるものである。

イエスが生前に説いた教えというのは、比喩が多いが、その中でも神の国(天の国)に関することがほとんどである。そして神からの愛、神への愛、隣人愛という愛の唱道者でもあった。

それらの倫理的側面ももちろん重要なものである。特に、理神論者と言われる人々やそれに先行するエラスムスは、聖書中でイエスが説いた道徳的・倫理的な側面からキリスト教を評価し、いわゆる啓示(※1)という立場を否定する。

だが、キルケゴールの立場は理神論者とは一線を画する。キリスト教の啓示、といった概念を重要視し、単なる道徳宗教としてのキリスト教(つまり理神論的キリスト教)を否定するのである。それに影響されたのが、20世紀を生きた神学者カール・バルトであり、彼は弁証法神学という啓示神学を打ち立てたのである。

実は、こうした啓示と倫理を巡る論争は、キリストの死からキリスト教の成立までの間にもおそらくなされてきたであろう。そしてキリスト教の成立以後も、かなりの期間を経て行われてきたものである。新約聖書の執筆者とされる人々は、もちろん啓示を重要視する(聖書とは啓示の集まりのようなものだから)。その代表者が、使徒ヨハネとパウロである。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者を一人も滅ぼさないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書3:16,新共同訳聖書)
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ローマの信徒への手紙5:8,新共同訳聖書)

上記二つを読めばわかるが、神がイエス・キリストを地上に遣わしたこと、そしてイエスが地上で死んだことに大きな意味があると言っているのが読み取れるだろう。

イエスの宣教活動といったものももちろん重要だが、実は、イエスの死後主にパウロによって形作られた様々な考え方、例えばイエスが贖罪のための犠牲として捧げられたという考えや、そのイエスの死後復活があり、天の神の御坐の右に座られたという考えなどは、イエスが説いたことではないのである。

イエスの復活を信じ、イエスを神、もしくは神の近くにいる者(メシア=キリスト)として認めることが、キリスト教である。

これは人間の理性的な考えからすれば、一つの不合理に他ならない。人間がアダムから原罪(つまり死や苦しみ)をもち、その原罪を除き去るために、神がその独り子を遣わす必要性などないし、他にも様々な問題点があろう。そういった点で、人間の理性と神からの啓示ほど対立するものはないのである。それでもキルケゴールは啓示という立場に固くつくのである。

そして、イエス(とキルケゴール)を語る上で忘れらないのが、イエス・キリストの神性を巡る議論である。これは、最終的に三位一体という教えにつながるのだが、ここで詳しく語る余裕はないので次へ移ろう。

※1 啓示とは、ギリシャ語でAποκάλυψις(アポカリプシス)の訳語で原義は「覆い(ヴェール)を取り除く」といった意味。特に神からの啓示、と言った場合、神がヴェールの後ろに隠れた真理を明らかにするため、ヴェールを取り除き、真理を人間にわかるようにする(ここでは言語化する、といったイメージが近い)ということである。