M.Weber『宗教社会学論選』1 『宗教社会学論集 序言』について

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※《》は本書からの抜粋である
『宗教社会学論集 序言』

宗教社会学論選 宗教社会学論選
(1972/10/25)
マックス・ヴェーバー

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 近代、あるいは現代社会学の創成期に活躍したM.ヴェーバーの代表作と言えば、やはり『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下、『倫理と精神』という)が挙げられるだろう。本書は『宗教社会学論集』(以下、『論集』という)の抜粋だが、『倫理と精神』は『論集』の最初に収められている論文である。『序言』はヴェーバーの問題意識、つまり何に重点を置いて自身の研究としたかを知るうえで重要な事柄がたくさん載っており、できるならば、『倫理と精神』の読了以前に読むのが良いだろう。この『序言』で個人的に重要と思われた部分を拾い読みしていきたいと思う。
 さて、ヴェーバーは次の言葉で『序言』を始める。《近代ヨーロッパの文化世界に生を享けた者が普遍史的な諸問題を取扱おうとするばあい、彼は必然的に、(中略)次のような問題の立て方をするであろう。いったい、どのような諸事情の連鎖が存在したために、他ならぬ西洋という地盤において、またそこにおいてのみ、普遍的な意義と妥当性をもつような発展傾向を取る(中略)文化的現象が姿を現すようになったか、と》。つまり、西洋に生まれた人間が世界史の問題を考える上で、何故西洋だけが発展している(ように思える)のか、その成立事情の連鎖とはいかなるものか、ということである。ヴェーバーは学問や芸術、建築、メディア、法治制度において西洋以外の諸文化には欠けている概念があると断言する。それは徹底的な”合理化”である。合理化の萌芽は西洋社会以外の社会でも観察できるが、それが(特に形式的な)合理主義という形を取るのは西洋だけであった。
 ところで、《近代西洋においてわれわれの生活を支配しつつあるもっとも運命的な力は、いうまでもなく資本主義であるが、この資本主義についても事情はまったく同様》だ、とヴェーバーは言う。同様だということは、ここにも徹底した合理化が行われていなければならない。ここでいう資本主義とは、単なる《営利衝動》、《利潤の追求》だけを指すのではない。《資本主義は、むしろ、そうした非合理的な衝動の抑制、少なくともその合理的な調整とまさしく同一視》される場合もある。ここでヴェーバーは仔細に触れていないが、これはまさしくプロテスタンティズムの積極的禁欲という倫理から、資本主義の精神というものが育まれた事実を示唆するものである。
 利潤の追求を行うだけが資本主義ではないとすれば何が資本主義なのか。ヴェーバーは次のように定義する。《資本主義的経済行為とは、(中略)交換の可能性を利用しつくすことによって利潤の獲得を期待する、そうしたところに成り立つような、したがって(形式的には)平和な営利の可能性の上に成り立つような行為》だという。ヴェーバー特有の周りくどい言い回しで分かりにくいが、経済的価値のついた付加物を新たな経済的価値と交換し続けることにより、利潤の期待された成果が確定する(*1)経済行為である。形式的に平和な営利とは、つまり、戦争や暴力行為による略奪を意図するものではなく、少なくとも一旦は双方が合意して商売が成り立つような条件のことだろう。
 ヴェーバーはさらに続ける。《資本主義的な営利が合理的な仕方でおこなわれているばあいには、それに照応する行為も資本計算を志向するようなものとなる》。ここでいう資本計算とは今日でいう利益計算のことであるが、ヴェーバーの時代はまだ静態論会計であったことを忘れてはならない。棚卸法によって算定した期首純財産と期末純財産の差額を出すことで利益を計算したから、期末の純財産(=資本)の変動がどうなるかを考えてみて、取引は行われていたのである。《つまり、その行為は、物的ないし人的な財貨や用役を営利手段として利用する計画的な営みのなかに組み込まれ、そして貸借対照表の方式にしたがって算出された、個々の企業の貨幣的価値あるいは資産の最終収得額が、(中略)決算期に「資本」を、すなわち、交換による営利のために費やされた物理的営利手段の貸借対照表上の評価価格を超過する、そのようなものとならねばならない》という。これは期末資本―期首資本で利潤の計算が出来きて、その利益が常にプラスになってないとダメという意識が生まれているのが資本主義である、ということを言ってるだけである。《肝要な点は、近代的な簿記によってであれ、素朴で表面的なやり方によってであれ、貨幣額で表現される資本計算が行われる》ことであると、ヴェーバーは言う。ここでは(おそらく想定しているのは複式)簿記が合理化されたものの一つとして挙げられている。
  このような資本主義の定義を掲げたあと、ヴェーバーは、西洋近代において特別な種類の資本主義が発達したという。それは《形式的に自由な労働の合理的、資本主義的な組織》である。つまり家でやる仕事と完全に分離した労働市場の成立である。この”家政と経営の分離”という事実と、これと密接に関連する”合理的な簿記”の二つが西洋に特有のものであって、この2つのものがあって資本主義と企業が成立したともいえる。”精密な計算”は、《自由な労働を土台としたばあいにのみ可能であった》。精密な計算から、”計測可能性”が生まれ、これはまさしく合理的なものなのである。
  さて、これまで西洋社会が合理化の軌道にそって特殊化された社会だとみてきた。この徹底した合理化を、合理主義と呼ぶことができると、ヴェーバーは言う。そして、(デュルケムとは異なって)この西洋の合理主義の基礎には、経済がかかわってくる。なので経済的諸条件を見なければならない。ただし、それだけでは十分ではない。なぜかというと、《経済的合理主義は、〈中略〉特定の実践的・合理的な生活態度(エートス)を取りうるような人間の能力や素質にも依存するところが大き》いからである。生活態度の形成にとって重要な要因は、《過去においては、つねに呪術的・宗教的な諸力であり、それへの信仰にもとづく倫理的義務の観念》である。こうした生活態度の形成に重要な影響を及ぼすのが呪術・宗教・およびそこから派生する倫理であるから、ここで世界の諸宗教と西洋の宗教を比較する宗教社会学の必要性が出てくるというわけである。
 もちろん、ヴェーバーは闇雲に諸宗教を見るのではない。《西洋の発展にとって重要だと思われるもののみに、あくまでも目が向けられている》とヴェーバーは断っている。そして、その誤りがあれば、《やがては「乗り越え」られねばならぬということ》であると彼は自覚している。
 ヴェーバーの取る手法には、今日様々な欠点があるのは確かだろう。自らが客観的・科学的だとヴェーバーは論じながら、主観的に科学の線引きをしたりしている。また、ある程度の合理化は西洋にだけ見られるものではない。明治維新後、西洋とは様々な違いがありつつも日本が遅れながらも、西洋諸国と並ぶ大国となったことはヴェーバーの手法では説明できないであろう(*2)。ただし、それでもここに示されているヴェーバーの考えは、今日の宗教学、あるいは社会学に多大な影響を与えてきて、また与え続けている考えに違いない。ヴェーバーが言うように、乗り越えるためにも、ヴェーバーの著作を読む必要性があるだろう。序言だけで結構な量になってしまったが、また続きの『世界経済の経済倫理 序論』についても書ければ書きたいと思う。(本文終了
*1 今の日本の財務会計の利益概念とも相通ずるところがあると思ったので、財務報告の概念フレームワークの考えを援用した。
*2 ただし、ヴェーバーとデュルケムの立場を受け継いだアメリカの社会学者ロバート・ベラー(Robert.N.Bellah,1927-)は江戸時代の日本の宗教・倫理・経済に着目して、日本の発展を説明する論文を出している。
参考文献
M.Weber『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』中山元訳、日経BP社、2010年/大塚久雄訳、岩波文庫1989年
Maurice Merleau-Ponty『弁証法の冒険』滝浦 静雄編纂、みすず書房 1972年