『宗教の見方』人間について考察する際に、人に勧められる本

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あなたは「人間」といったものについて、考えるとき、人に勧められる本をお持ちだろうか。
  私には、そんなに多くの本を思い浮かばないが、次の本は自信をもって勧められるものである。レビューについてはアマゾンで書いたので、ここでは補足的なことを書こうと思う。

宗教の見方: 人はなぜ信じるのか 宗教の見方: 人はなぜ信じるのか
(2012/09/14)
宇都宮 輝夫

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  昨今の日本で宗教というと、どうも胡散臭さがあるかもしれない。人から金をだまし取ったりする宗教、高尚なことを説きながら乱れた性生活を行う教祖、あるいはイスラームの原理主義。こういった事実を見せられると、宗教とは障害であって、それを信じている人は馬鹿だと思う人も多いだろう。
  しかし、世界的に見て、そのような宗教観を持つのは日本人くらいのものである。実際、日本人にしても、特に神や仏を信じていないというという人でも、葬式をあげないと罰当たりだと思ったり、クリスマスを祝ったり、初詣に行ったりする。自分が信じていないと思っていても、それは信じていると見なされることがあるし、実際には全く信じていないわけではないのである。
  有史以来、宗教や宗教に類するモノほど、人類史にわたって普遍的な精神的事象は稀である。この本は、そういった宗教のことについて、徹底的に、またいろんな角度から思考し分析することを行った書である。
  ここでは仔細を見ることを省くが、一点だけ重要だと思うことを指摘しておこう(それはすべての人間にかかわる問題だからである)。本書の第5章のタイトルは、《信じるとはどういうことか》である。この章の後半では、いわゆる信の構造といったものが取り上げられていると言えるだろう。我々は子供(小学生以下のことを思い浮かべるのが良い)のとき、様々なことを教えられる。教えられることを知として体得するわけだが、そこには先生に対する信頼がなければ、知として成りたたない。換言すれば、先生の言うことをある程度以上確かなものとして信じていないと、知識とはならないのである。先生が言うことがすべて信じられないなら、例えなあそこに走っている赤い車は消防車だよ、と教えたとしても、それは何にもならない。そういった点で、知は信に基づいている。
  また懐疑もある程度の知がないとできない。無から疑うことは生まれないのである。我々は通常、先生を疑うことなく、知識を得ている。もちろん、先生を疑うことがあるかもしれないが、それは親なり別の人なりが、あの人は信頼ならないから疑いなさいという一種の知を教え込まれた場合だけである。そこにも、知があり、また親への信がある。「あの人が言ったことは本当だろうか」と疑うのは、知識を得た後になってからである。そうした点で、知は疑に先行し、信は知に先行するのであるから、信は疑に先行するのである。
  こうした《私たちが一つひとつの学習を通じて形成されていった信念の体系》をウィトゲンシュタインは「世界像」と呼ぶが、どんな場合でも、掘り下げていくとこういった世界像に行きつく。こうした世界像に影響を与えるのが、宗教そのものであり、また色んな習慣である。そうした世界像とは、根拠づけられない最後の砦のようなものである。
  実際、得るものが大きいと思うので、是非手に取って読んでみて欲しい。