『カラマーゾフの兄弟』から 「ゾシマ長老の指摘―ドストエフスキーの科学に対する見方について」
- 2011.03.25
- 未分類
さて、ゾシマ長老が修道僧に対して一般の世の中の人々について語るシーンがあります。そこから抜粋。(『カラマーゾフの兄弟(中)』新潮文庫 原卓也訳より)
「彼ら(一般の世の人々)には科学があるが、科学の中にあるのは人間の五感に隷属するものだけなのだ。人間の存在の高尚な反面である精神の世界はまったく斥けられ、一種の勝利感や憎しみさえこめて追い払われているではないか。世界は自由を宣言し、最近は特にそれがいちじるしいが、彼らのその自由とやらのうちにわれわれが見いだすものは何か。ただ、隷属と自殺だけではないか!なぜなら俗世は言う。『君らはさまざまな欲求を持っているのだから、それを充たすがよい。なぜなら君らも、高貴な裕福な人たちと同等の権利を持っているからだ。欲求を充たすことを恐れるな、むしろそれを増大させるのがよい』―これが俗世の現代の教えである。この中に彼らは自由を見いだしているのだが、欲求増大のこんな権利から、どんな結果が生ずるだろうか?富める者にあっては孤独と精神的自殺、貧しい者には妬みと殺人にほかならない。」
この調子で俗世の批判が続けられ、次いで修道僧がそれをどう助けられるかが語られるのですが、この批判を我々は痛切に受け止めなければならないと思います。
解説書なども何も読んでいない段階で、何一つわからないに過ぎないですが、私にはドストエフスキーがこの作品の中で自己の主張をゾシマ長老に代弁させている箇所がいくつもあるように思います。つまり、この箇所はドストエフスキーの主張だと私は思っているわけです。
ドストエフスキーは、科学を信じて進む未来には、隷属と自殺しか残らないというのです。この点で、トルストイも人生論の中で科学・学問は真の幸福をもたらすものではない、と批判したことも参照しておいて良いかもしれません。ドストエフスキーとトルストイとは立場さえ違え、科学や学問がもたらすものは、悪であることを見抜いていたのです。
20世紀に、科学の発達の極みともいえる核兵器が開発され、実際にそれが使用されたのも、その悪の一つだと言えましょう。人類は、自らの手で自らの命のすべてを消し去ることができる技術を手にしてしまったのです。
ただし、現代世界において利便性を向上させるために様々な科学・学問が利用されています。これらをすべて否定してもとの生活に戻ることは出来ないのであります。言ってしまえば、我々は利便性のために科学・学問の発展を止めることなど出来やしません。
ではどうすればよいのか。科学・学問の発展がもたらす(生の)隷属と自殺に対抗する価値観・哲学を個人個人が持つしかありません。それは、人によっては何らかの宗教でありましょうし、実存主義の考えであることもあるでしょう。科学万能主義、ニーチェの言葉を借りるなら論理ソクラテス主義といったものと共存ができる考え方をそれぞれが持たなければならないのです。
科学・学問は確かに必要です。ですが、人間の本質を求めてようとすればするほど、今の科学はあまりにも細分化され、その本質の問題から遠ざかっているのではないか、とさえ思ってしまいます。この科学の力だけを信じるのではなく、それに対抗しうる価値観を個々人が身につけることが必要なのではないでしょうか。
↑大分昔に私自身が別のところに書いたものから引用
今回の震災を受けて少し感じたものをいくつか箇条書きに(上の文とはあまり関係ないものばかりかも)
・我々は科学の恩恵を受けて生きている。数々の機械やコンピュータなど。産業社会から情報社会への移行というけれども、それは産業社会としてのインフラの整備があってこそのことを痛感させられた。電気がなければ機械は動かないし、水がなければ人は生きていけないし風呂も入れない、ガスがなければ火は使えないし、等等。当たり前といえば当たり前のことなのだが、自然の脅威の前にはいかに人間の作ったものがはかないものか、思い知らされた。
・クリーンなエネルギーといわれた原子力発電も、産業インフラあって制御できるものだ。
後藤政志さんの院内集会のお話から。
<引用>そもそもここで起こったことは、最初に自動停止、制御棒が入って全部停止している。4,5,6は止まってたし、1,2,3も制御棒が入って止まった。普通の機械ならこれでおしまい。原子力で全く違うのはここからが大切。原子炉は非常にエネルギーが大きい。例えば100万Wクラスの原子炉を運転するのに、ウラン21トンくらいだと言われている。トラック何台分。それに対応するのは、30万トンタンカー五隻分とかそれくらい。そのままブレーキかけて止めたといっても熱は出続ける。これは化学的に正しい言い方ではない。エネルギーの等価というのとは少し違うが、アナロジーとしてはそうである。つまり、ものすごく大量の石油をほんの一部のウランで代替できる、だから原子力は非常に効率が良いとよく言われる。ということは安全性からいったら逆だ。それだけエネルギーが大きいものをコントロールできるか、と見る、技術者は。だから、安全系・安全装置がいっぱいついている。<引用終>
その幾度にも多重化された安全系もまた、電気がなければ動かない。そのために今回の事故が起きたわけだが、我々は原子力をコントロールできなかったのである。放出された放射性物質は、(我々の精神を蝕むとともに、)身体をも蝕む。
・原子力プラントというのは、日本の高度経済成長のシンボルの一つである。原子力安全神話のもとに、代替資源のない我が国では重宝されたのだ。そして、今でこそ批判されはしているが、我々は今もその恩恵を受けていること(=原子力発電によって経済が支えられていること)を忘れてはならない。
・なんだか本文と大分筋違いのところに来てしまった。科学の悪の面を見るというのと、科学の利便性を捨てされないというのは、大きく違う。科学の悪の面を警戒・批判しつつ、科学を利用すべきであるが、実際は出来てないということを少し触れたかったのだが、これともまた変わったことを書いてしまった。以上、駄文失礼。
-
前の記事
2011年03月24日のつぶやき 2011.03.25
-
次の記事
マクルーハン1 2011.03.26