「命題コレクション 社会学 31 閉じた社会と開いた社会」 補助テキスト

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ちと、ゲームとはほとんど関係ありませんがご容赦を。

「命題コレクション 社会学 31 閉じた社会と開いた社会」 補助テキスト

ベルクソン 「道徳と宗教」

道徳
  人間の生活は「禁止」とともに始まる。人間は社会のうちに生きているが、同時に人間は内に社会をもっている。道徳とは社会の個人に対する社会の強制・圧力である。社会を持つ生物種には2つある。昆虫類と人類である(※ここに、本文に出てくる膜翅型社会と人類社会の類比が出てくる理由がわかる)。蜂や蟻は本能的に共同生活を強いられているが、人類もまた同じである。生命の自然の要求により、社会生活をしなければならないと言う点で、道徳は一つの自然にほかならない。道徳的禁止という方法によって、社会は自己を存続させようとする。この場合、道徳とは社会の自己愛のことであり、このような社会は「閉ざされた社会」である(※本文「閉じた社会」)。個々の社会の成員間において調和は保たれるが、社会相互の間においては闘争も生まれる。このような道徳は、閉ざされた道徳である。
  以上の道徳に対して、開かれた道徳が存在するとベルクソンは言う。人類愛の上にその道徳は成立する。その人類愛は、閉ざされた社会の自己愛とは質的に全く異なるものである。人類愛の対象は、宇宙を、すなわちすべてのものである。また、まったく対象がなくても開かれた愛は存在する。愛そのものである。そのような開かれた愛(あるいは道徳)はどのように獲得されるか。道徳的英雄の努力によって獲得されるものである。

宗教
  宗教についても二つの宗教を区別することができる。静的宗教と動的宗教がそうである。
  静的宗教とは、迷信・錯誤の満ちるものである。どんなに間違いだ、不合理だといっても、人間はその誤謬・背理にしがみつく。なぜかというと、それには知性が絡む。知性は二つの反生命的性格を持つ。すなわち、知性の利己性からくる社会性の破壊と、人間の自己の死を自覚させることからくる、生の不安と生活意欲の喪失への導きである。しかし、知性を用いて、生を防禦する必要が出てくる。ここに、宗教的空想的構想が生まれ出る。宗教とは生命の自然的自己防衛である。これが、静的宗教という点での宗教の意味である。
  しかし、すべての宗教がそのような静的宗教なのではない。偉大な宗教的神秘家によって説かれ創造された宗教は、静的宗教とは全く異なった性質を持ち、動的宗教と呼ばれる。このような宗教は創造的宗教であり、生の飛躍は愛の飛躍となる。歓喜を求めるものであるという。生は創造するとき歓喜にひたる。動的宗教はその歓喜を人間に与える。それは人間に生きる歓びを与えるものである。というのは、生きる歓びとは創造の歓びに他ならないからである。

※『世界の名著53 ベルクソン』より要約