キルケゴール 桝田 啓三郎訳 『現代の批判』

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 「現代は本質的に分別の時代であり、反省の時代であり、情熱のない時代であり、束の間の感激に沸き立つことがあっても、やがて抜け目なく無感動の状態におさまってしまうといった時代である。」
 この文章をもって始まる『現代の批判』であるが、キルケゴールの批判はいわばこの文章に要約されていると言ってよい。この文章についての解説は本書を読むのが一番であるから、ここで詳しく解説するのはよそう(「世界の名著」の解説にも、「キルケゴールの作品はすべて内容解説を読んで梗概を知るだけで理解できるようなものとは、本質的に違うのである。百遍の読書のみがきっと紙背の謎文字を解いてくれるであろう」とあるではないか)。私はいくつかの重要なキーワードを取り上げて少し見るだけにしよう(それが私の能力の限界である)。
 「水平化」、このことが「現代」という時代の特徴である、とキルケゴールは言う。「水平化」とは何であるか。それは、具体性が捨てられ、数学的な数のように人間が扱われることである。言い換えれば、具体的な人間性、あるいは社会性が捨象され、人間の質ではなく量的平等化が求められること、とも言えよう。
 この「水平化」が成立するには、抽象物の幻影が必要である。抽象物の幻影とは、すなわち「公衆」である。キルケゴールは言う。「情熱のない、しかし反省的な時代においてのみ、それ自体が一個の抽象物となる新聞に助成されて、この幻影が出現しうるのである。」「新聞」と訳されている語は、ここでは「ジャーナリズム」全体のことを指す。「新聞」は、「民意の具体的なあらわれではなく、ただ抽象的な意味のおいてのみ、一個の存在なの」である。
 抽象物の代表である「新聞」から、何ら具体性を持たない幻影である「公衆」が作り出された。「公衆は一切であって無である。あらゆる勢力のうちで最も危険なもの、そして最も無意味なものである」とキルケゴールは断言する。また「公衆」は、私的・公的な「おしゃべり」であるという。「公衆とは、最も私的なことにたいして関心をもつ公共的なものだからである。」
 ではこのように「水平化」が進む世にあって、これに打ち勝つ方法はあるのであろうか。キルケゴールは「受難」の行動によってのみ、可能だという。この水平化というすべての具体性を取り除く教師によって、教えられたものは、宗教性を持ってそれに抵抗するのである。すなわち、神の前に「単独者」として立ち、信仰を抱くことが出来る、ということによってのみ、水平化に打ち勝つことが出来るのだ。

 以上がキルケゴールが「現代の批判」として行ったものの一部である。この「水平化」といういってみれば人間の自己疎外(「自己を失う」)の過程に着眼した、ということについてはさすがキルケゴール、と言えようか。自己という具体性を捨て、抽象物として社会の機械的存在となること、キルケゴールが危惧し、批判したのはこのことだったのだ。