理論と行動2

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理論と行動、つまり思考と行為との完全な区別はできないとは言ったが、それはどういうことか。

ーカントの二つの用語・純粋理性と実践理性
このことを考える上で助けとなるのが、哲学者イマヌエル・カントの純粋理性、実践理性(及び判断力)といった概念である。そういう言葉を出されるとしばしば人は何を言っているのかわからなくなることが多いが、今回の主題と密接な関係があるのである。簡単にいうと、純粋理性とは純粋に思考する際に用いる理性というくらいの意味あいである。そして、実践理性は人が行為する際に用いる理性、判断力は趣味や美的判断の際に用いる理性のことである。この純粋理性と実践理性とは、しばしば対立概念として捉えられることが多い。もちろん、思考と行為が一応の対立をなしているうちは、この二つの理性はカントにおいて、対立的に用いられることがあるのは否定できない。だが、カントは全くその二つの理性が対立的なものだとは要ってはいないのである。簡単にいうと、理性には三つの領域があり、それが純粋理性、実践理性、判断力といったもので、それぞれが相互補完的な役割を担っている。

―純粋理性と実践理性の共通項は「理性」
では、このカントの用語の意味をなぜ確認したのかというと、人は純粋に思考する際にも、行為をなす際にも、理性を用いているとカントは指摘している事実が重要だからである。もちろん、カントにおいて、純粋理性はいわば物事の究極を考えるに至り、実践理性は行為の価値基準すなわち倫理、道徳に話が流れるのがすべて正しいとは私も思わない。さりとて、このどちらの行為にも理性が働いているというのは、今回の話題にはきわめて興味深い。後の英米の哲学者が「行為」と「思考」を二項対立的に捉えていたのとカントの考えとは全く違うことをここでは触れておく。

―ヘーゲルの労働の概念
ここで理論と行動は、形骸的概念になる、つまり、対立的概念だと思われていたものが、重なり合っている部分が多く完全な対立をなさず、むしろ共通点のほうが大きいことが示され、その区別があいまいになってしまった。この二つの媒介項となるのが、言語であるが、ヘーゲルはもう一つ重要なものとして、労働を挙げた。ここでいう労働とは、家事労働や社会的労働との区別を問わず、また身体的労働と精神的労働との区別を問わない、かなり大きな働くということを多く包摂するものである。この人間的労働は、現代社会においては分業によって成り立っており、自分ができないことを他人がなしていることである社会は成り立っている。また、他人ができないことを自分が行うことで、ある社会は成り立っているともいえる。これを自覚することで、労働という概念は、相互依存的に人々が存在することを示し、また一定の共通理解が必要であることを示す。

―労働と言語
もちろん、分業的な労働は、動物社会でもある程度存在するであろうが、人間にはその自覚があること、それがヘーゲルは大事だという。その自覚に必要なのが、言語であることは間違いない。そして、この言語というものも、かなり注意深く考えなければならないことではあるが、一定の共通理解と相互依存という特色を併せ持つ。どういうことかというと、まず言語は差異を認識する道具としての意味の連関であるが、これは人によってかなり振れ幅があるとはいえ、やはり同じような言語に関する知識の土台がないと成り立たない。そして、言語の相互依存性とは、言い換えれば相互理解ということある。思考と行為をそれぞれ伝達するものとして存在する言語において、それぞれの言明や考えは明らかに全く同じものではないとはいえ、自分が考えられないことや発言できないことを、他人が行うことを知り、また他人と自分を逆にしたことを知ることである。相互理解が全く不可能に思えることがあるが、話すことで解決することがあったりすることからも、その段階である程度、相互的了解が取れることがあることからも、これがわかる。

ここでは、少し区別ができないことを考えてみたが、結局は理論と行動は主体としてだけ存在するわけではなく、社会的に何らかの意味を持つことが多いのである。次は、その社会に関することを少し考えたい。